2017年09月14日

愛猫『まるこ』、その後

『まるこ、その後』
7月下旬、心臓発作で九死に一生を得た17歳まるこオス。その後、どうやら失明してしまったようです。

発作が原因なのか、網膜に血液が通わなくなったりすると、そのようになってしまうことがあるそうです。
老齢に追い討ちの失明という憂き目に、まるこ、しばらくショックだったようで二日ほど動けず、食欲もストップしてしまったほど。それでもなんとか立ち直り、動き回るようになりましたが、大きな段差では、跳び降りることができません。腰掛などに手探りで飛び乗るまではいいけれど、いざ降りる段になると高さが計れず、そのままとなってしまいます。最終的には、ぼくらが居る時以外は乗らなくなりました。

ぼくらのベッドへの乗り降りができないと困るので、丈夫な板でスロープを作ってやりました。何度か練習の末、今ではそれを利用できるようになり、夜中でもひとりでトイレに行けます。大方の方向感覚もあるため、お掃除ロボ『ルンバ』に似た動作をしつつ、トイレ、水のみ、食器、ベッド、ちゃんと自立した日常生活を再開しています。
同居の後輩兄妹猫二匹のたしなみのためか、なめてやったりの親心も復活。
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そんなこんなで、人生末期の盲目という試練もみごと克服の愛猫まるこです。ひたむきに「生きよう」とする姿にいじらしさと執念というか力強さを感じます。ぼくらも、見習わなければいけませんね。
posted by michinagasama at 11:57| Comment(0) | 道長だより

2017年08月03日

老猫まるこ生還す

 あれは道長がここ、豊川市に作業所を移転して5年目の2000年の初夏のこと。初代愛犬きくの散歩の途中、できれば聞かなかったことにしてしまいたい「ピー、ピー」という鳴声に耳を澄ませてしまい、図らずしもやむを得ず、二匹の子猫(♂と♀)を拾ってしまったのだった。

 当時、ぼくらはここ、旧音羽町には作業所だけで家はなく、岡崎からの通いだった。かといって、岡崎の実家には、すでに親子猫が二匹住んでいたため、二匹の子猫の嫁ぎ先を探さなければならない羽目になる。結局「しばし」の約束で、次女(ぼくの)の家での厄介住まいを押し付けてしまった。約束とは破られるためにある、の格言どおり、以来、音羽に移住を果たす2006年まで、長々次女の家で居候となるのだった。

 やっとのことで、音羽に新作業所の新築、移住を果たしたその年、とうとう二匹を引き取ることに。だがしかし、音羽に引越ししてきた二匹の兄妹は相性があまりよくないことが判明。体重8キロ超のまるこに遊ばれ、どうやら彼女、生活に疲れてしまう様子。結局、彼女はふたたび、岡崎の次女の家に出戻っていった。

 だがその後、さらに三匹の猫が相次いで参入することになるのだけれど、ここでは話が長くなるのでいきさつは割愛(関連記事は『道長だより』507578591593などをごらんください)。

 そして年月が経過し、この春、まるこの妹?ウォルミーが17歳を前に死去。まるこも最近老け込み、白髪も増え、やせ衰え、体重も5キロを軽く切るほどの老い振り。  で、まるこ、つい先日、倒れてしまったのだった。苦しそうによだれをたらし、瀕死の様相で息も絶え絶え。しばらくして発作が治まっても立つことができず、口元に水を持っていっても飲まず。このままでは駄目と覚悟を決めたぼくら、かかりつけの獣医さんに連れてゆく。診断は不整脈からくる急性心不全とのこと。そういえば、過去、何度か似た症状がありました(今回は重かった)。回復を祈り、点滴をしてもらい、回復期用の高たんぱく食の缶詰を1個いただいて帰宅。

 おそらく、まるこにとっては人生、最も長い時間をすごしたことだろう。それでも、しばらくすると水を飲むようになり、とうとう獣医さんの缶詰を口にしたのだった。「すごい!」。その生きようとするけなげな姿、気力には心が動いてしまう。一体、何がまるこをいまわの際(きわ)から引き戻したのかしら。ぼくらと二匹の子分の、いましばらくの生活、ひとときを望んだのかもしれない。
 もう、発作から1週間以上経過。足腰がヨボヨボなのは変わりないけれど、すこしだけ体重を増やしてきている。何とか寿命を延ばしたよう。

 健康がもどってきたかと思ったら、今度はまた、寝床に来てはちょっかいを出してきたり(爪が痛い)、腹の上に寝そべりにくる。そんないたずらには少々辟易気味だけど、少しなら許してあげよう。

 心臓に爆弾をかかえながらの、これからしばらくの余生だろうけれど、ぼくらと二匹の子分たちとの貴重な時間を楽しく過ごさせてやろうと思う。

 かかりつけの柴田動物病院さん、ほんとうにありがとうございました。
老猫まるこ生還す
白髪も増え、老衰を隠せません(右)
posted by michinagasama at 10:37| Comment(0) | 道長だより

2017年05月27日

東京オリンピック

道長だより 『東京オリンピック』
 2020年、東京オリンピックとのこと。そういえば、ぼくにとって印象深いのは、なんと言っても1964年(昭和39年)の東京五輪。当時、ぼくは13歳で中学1年生ということになる。

 かなりむかしのことなので、確かではないけれど、開会式はちゃんと観ることができたことを記憶。暦をその年の10月10日に遡ってみると『土曜日』ということになっている。学校は半ドンで終わり、急いで家へ帰ってテレビだったのだろう。その日はちょっとない興奮だった。

 東京五輪以前の大会で、ぼくの記憶にあるのはイタリアローマ大会1960年。そのときには、我が家にテレビなぞなく、深夜、ラジオに耳をそばだてての観戦だった。当時の電波は、地球の裏側から成層圏に反射しながらはるばる日本にやってくるため、その波に強弱があり雑音も多く、聞こえたり聞こえなかったり。水泳400mで、山中毅がローズ(豪州)と競り合い、惜しくも銀メダルという一戦に手に汗握ったことを覚えて…いない(山中が競泳でがんばっている場面の実況中継だけを記憶)。

 さて、それから4年後、テレビ放送で観た東京五輪の開会式(もちろんモノクロ)はこんなだった。聖火の最終ランナーが陸上競技場にさっそうと入場。皆が固唾を呑んで見守る中、トラックをまわり、聖火台までの長い階段を駆け上がり、高く掲げたトーチの聖火を聖火台に点火。これぞまさに感激の一瞬。

 だがこのとき、ちょっと奇妙な光景がテレビ画面に映っていたのだった。点火しようとするその後方に、なにやら長い竿のようなものが揺れている。さらにその先に四角な物体が付いている。どうやらそれはカメラなのでした。まったく、世紀の一瞬を別のアングルで撮ろうという精神には頭が下がるけれど、すべての国民がこちらから観覧する中、あれは少々興ざめな画(え)であったと記憶する。

 53年前の心ときめく東京五輪。日本国民にとっては、まさに夢の祭典だった。戦後生まれのぼくはその悲劇を経験していないけれど、戦争を、その修羅場を経験した人々にとっては何とも感慨深い出来事であったのではないかしら。さらに、1964年のこの年、東京五輪に先駆けて夢の超特急東海道新幹線も開通。翌年には名神高速道開通。68年には東名高速道も。

 ぼくは昭和26年、1951年生まれ。ぼくの記憶では(小学生のころ)、戦争の名残はまだ少しはあった。大きなお祭りに行くと白衣の傷痍軍人の募金、子供たちが洞穴探検をした防空壕の名残。そして、戦争で行き違いになってしまった人を探すラジオ放送『尋ね人の時間』くらいのもの。それほどに戦争の傷跡は人々の血と汗により復興され、さらには高度成長もとげた。

 2011年、東北震災、原発事故。2016年、熊本震災と日本は大きく被災。とりわけ原発事故による傷跡は比類なく、未来に残る大惨事といえる。

 そんな中、ふたたび2020年東京五輪が叫ばれている。でも、なんとなく冷ややかな、この空気はどうだろう。今、日本はもっと真摯に向き合うべき現実があることを忘れてはいけないと思う。
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posted by michinagasama at 00:00| Comment(0) | 道長だより